【Jimny徒然記】 2005年3月

 このページでは、私Jimnyの周りで起こったことや、
    日々感じたこと思ったことなどを徒然に綴っていきます。
    なにか不適切な表現や、間違った記述などがありましたら、ぜひご指摘ください。



【目次】

2005.03.26・・・・雲仙牛首岩
2005.03.22・・・・今までとなんか違う金泉寺
2005.03.14・・・・山登りする人はみんないい人
2005.03.08・・・・山岳事故についての思い込み
2005.03.02・・・・寝台特急・私の思い出

2005.03.26.・・・・雲仙牛首岩


今日は、雲仙の牛首岩にmimimamaさんと二人で行きました。
以前付け替えた終了点のアンカーの残置ロープが
古くなっている頃なので、それを付け替えるためでした。

作業は無事終りました。

マルチのルートは、結構登る人が多いようで、
懸垂下降のアンカーは時々新しいものに変わっているようです。

ですが、このショートルートは、
それほど登るする人はいないようでした。
今日は、岩も少しクリーニングしてきました。

残置のガイドロープを使えばいきなりトップロープで登れるので、
なおさら、終了点のアンカーはしっかりしていなければ危険です。

今日は気になっていたことを片付けることができてスッキリしました。


2005.03.22.・・・・今までとなんか違う金泉寺

先日は多良で2日間遊びました。
2日目は、あるルートを辿り金泉寺まで行きました。
マンサクの時期ということもあり、金泉寺は賑わっていました。
私達も、小屋の外のベンチでお昼にしました。

今までなら真っ先に金泉寺の小屋番人さんに挨拶に行くのですが
その小屋番さんはもういません。
先日、都合で引退されました。
懇意にしていただいていたのでとても残念でした。

食事を済ませて小屋にお邪魔しました。
いつもと同じように常連さんたちがおられ、薪ストーブが燃えていました。
これまでと何も変わらない小屋の中でした。

でもやっぱりなんか違います。
そこにいるのが当たり前だった人がいないのです。
私の心の中にある金泉寺とは少し違います。

でも、この日の金泉寺がこれからの金泉寺なのです。
そして新しい小屋番さんと共に新しい金泉寺の時間が流れていくのでしょう。
その新しい金泉寺の時間の中に私も変わらず存在したいものです・・・・


2005.03.14.・・・・山登りする人はみんないい人?

山や自然を愛する人はみんな心優しくていい人ばかり・・・・・かなっ!?
小さな草花をいとおしく思い、大きな木に安らぎを覚え、山を流れる風の声と会話をして・・・・
そんな山男、山女は心優しくあってほしいものです。

足元の小さな草花を気遣う優しさがあれば、
言葉を持っている人と人の良い関係なんて、なにも難しい事はないと思うのです。
あの人はきっとこうなんだ、とか、人は思い込みで勝手に決め付けてしまうことがあります。
でもそれは不幸なことです。
せっかく理解しあえるための言葉という道具を持っているのに、、、、

もっと、人にも優しくなければ。

私は若い頃サービス業にいましたが、接客の基本は自己管理だと言われました。
自分が健康であってきちんと睡眠もとっていなければ心からの笑顔でお客様を迎える事は出来ない・・・と。

笑えない時も人にはあるのです。
小さな草花に優しく出来る登山者なら、もっと人にも優しくなれるはず・・・だと思うのです。 (自戒)


2005.03.08.・・・・山岳事故についての思い込み

山の事故と聞くと何を思い浮かべますか?
一般的な登山者にとって、事故のイメージは相変わらず「クライミング」「冬山」の事故が多くて、
ハイキング中の転倒などは山岳事故ではないと考えている傾向が強いそうですが、
現実には、厳しい環境下での事故は少なく、むしろ軽登山程度の山で大部分の事故は発生しているそうです。
岳人に警察庁のデータの記事が載っていました。

山が登山者によって接し方を変えてくれればいいのですが、そんなわけにはいきません。
初心者にもベテランにも山は同じように厳しかったりやさしかったりします。
初心者だからといって山は手加減はしてくれません。

マスコミは、冬山遭難は取り上げますが、低山での道迷いで遭難しても大々的には載せたりしません。
そんな事からも山岳遭難については間違った思い込みや錯覚があるように思います。

なぜ、クライミングや冬山での事故よりハイキング中の事故が多いのか・・・・
それはきっと、危険を認識して山に入るか否かの違いだと思います。
クライミングでは落ちる事を想定して安全確保をしますし、
冬山ではあらゆる危険を想定して装備や技術を磨いて山に入ります。

ハイキングの場合は、何の危険も予想しないで山に入る方が多いのではないでしょうか。
地図も持たなかったり、地図の勉強もしなかったり、雨具やヘッドランプも持たなかったり、
危険を認識しないままに山に入る方が多いのかもしれません。

私達が遭遇する最も確率の高い山の遭難は、明日登るかもしれない地元の低山なのです。


2005.03.02.・・・・寝台特急・私の思い出

ブルートレイン「さくら号」がとうとう廃止になりましたね。
この列車にはじめて乗ったのは私が小学生の時でした。
2つ違いの中学生のすぐ上の兄と2人で、当時大阪にいた2番目の兄のところに出かけた時が
さくらとの初遭遇でした。
その後も、何度かさくらには乗ったのだろうと思いますが、よく覚えていません。

さくら号ではありませんでしたが、寝台特急で一番思い出に残っているのは、
私の初めての北アルパスへの登山の時のことです。
寝台特急「あかつき」でした。
山岳会に入ってからも、商売をしていた私は店を留守にすることが出来ずに
九州内の山には頻繁に出かけていたもののアルプスには一度も行ったことがありませんでした。

山岳会に入会して何年か経った頃、思い切って店の段取りをしてアルプスに出かける事にしました。
初めて取った連休でした。

山岳会の先輩や同僚と4人で行く事になり、何度も打ち合わせをし、計画書を作り、準備に追われました。
出発の日が近づいてくると、遠足前の子供のように気持ちが高まってきたものです。

そして出発当日、店の事を女房と従業員さんに頼んで、長崎駅へと向かいました。

高揚した顔つきのメンバー3人とホームで合流しました。
当時は長崎からアルプスに出かける登山者はそれほど多くなくてちょっとした遠征みたいなものでした。
所属山岳会の人たちもホームまで我々を見送りに来てくれていて、
女性陣などからはビールやつまみなどの差し入れをいただき、ますます気持ちは高ぶるのでした。

列車に乗り込み、窓越しに見送りの人たちと手を振り合うと、するすると「あかつき」は動き出しました。
寝台列車は4人でちょうど一区画なので、下のベッドに腰掛けて4人でビールを飲みながら
これから向かう山のことなどを話し込みました。

自分のベッドに潜り込んでもなかなか寝付けなかったことを覚えています。

そして目覚めると、名古屋でした。
名古屋で列車に乗り換えて松本へ、松本電鉄で新島々へ、
新島々ではバスを待つ時間が長かった事を覚えています。
そこからバスに乗り換えて上高地へ・・・・・

上高地着は、お昼頃だったと覚えています。
その日は横尾まで歩いて、泊まりました。
はじめて見る上高地や前穂高岳、明神岳などの姿に感動したものです。
そして、槍ヶ岳山荘に泊まり、北穂高岳へ縦走し、北穂の小屋で泊まりました。
北穂の小屋のテラスで見た星空は忘れられません。

翌日、北穂から南稜を下山し、涸沢を経由して上高地へと下りました。
こうして私のアルプスデビューは仲間達に支えられ無事終りました。

その後も何度かアルプスには出かけていますが、寝台特急で行ったのはこの時だけだったと思います。
それから後は、飛行機や新幹線、夜行バス、マイカーなどで行っていますが、
やはりこの時の寝台特急での山行が一番思い出になっています。

仲間とビールでも飲みながらこれから行く山の話しを楽しめるのは、寝台列車が一番です。
山登りは、ピークを踏むことだけが楽しみや目的ではなく、
計画を作るときから始まり、登山口に着くまでの時間も登山の楽しみの大きな要素だと思います。

そんな意味からも、もう一度「あかつき」が走っているうちに
わざわざでもで寝台特急で山に行きたいと思っています。

*先日の書き込みは、「さくら」としていましたが私の勘違いでした。
 私が乗ったのは「あかつき」で、今も現役で走っています。 3/14訂正


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